CGSでも宮脇淳子先生に近現代史の解説をお願いしています。
歴史をしっていないと、向こうの無理難題を飲んでしまうほどいい人なのが日本人。
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初めは「保護国」までだった
抵抗激化で韓国併合へ
明治42(1909)年10月26日朝、日本の初代首相をつとめた伊藤博文は列車で満州(現中国東北部)のハルビン駅に着いた。だが出迎えの人らと返事しようとした瞬間、紛れ込んでいた韓国人の安重根から数発の銃弾を浴び、約1時間後に絶命した。
伊藤はその4カ月余り前まで日本が「保護国」としていた韓国の外交、軍事を統括する「統監」の地位にあった。安は取り調べで、日本による支配の非を訴え、死刑となった。
このため安重根は今日に至るまで韓国で英雄視され、今年6月には朴槿恵大統領がハルビンにその碑を建てるべく、中国の習近平主席に協力を要請したほどだ。
だが維新の元勲のひとりで、立憲政治の創始者だった伊藤をテロで失った日本国民の衝撃も大きかった。日本政府はすでにこの年の7月、韓国を保護国からさらに進んで日本に併合する方針を決めていた。そこへ併合には慎重だった伊藤の暗殺で世論は一気に併合を後押しする。韓国側もこれをのまざるを得なくなったのだ。
日本にとっての「韓国問題」は明治37(1904)年2月、日露戦争の開戦時にさかのぼる。「中立」を宣言した韓国に対し、首都・漢城(現ソウル)を占拠した日本はこれを認めず、協力を約束させる日韓議定書を結んだ。
翌38年、来日した米国のタフト陸軍長官と日本の桂太郎首相との間で覚書が交わされる。米がフィリピンを領有することと、日本が韓国を保護国化することを互いに承認する内容だった。
さらに英国、ロシアの承認を得た上で日露戦争終結後の11月、第二次日韓協約を結び、保護国とした。保護国とは、自治は認めるが外交と軍事は保護する国が取り仕切るという仕組みである。
現代から見れば、強国同士の取引で他国の命運を決めることなど許されない。だが弱肉強食の帝国主義時代には普通の論理だった。
特に日露戦争に勝ったとはいえロシアの再南下を恐れていた日本としては、韓国を「保護下」に置いて、ロシアの進出を許さない近代国家としたかったのだ。
むろん韓国側が素直に応じるわけもない。瀧井一博氏の『伊藤博文』によれば、外交事務の委任を求める伊藤に高宗皇帝は17世紀末にオーストリアの統治下に入ったハンガリーを例に「(韓国は)ハンガリーのような地位に陥ってしまう」と抵抗した。これに対し伊藤は「ハンガリーに皇帝はいないが陛下の立場はそのままです」と説得したという。
だが高宗皇帝は明治40(1907)年6月、オランダのハーグで戦争時の取り決めをするため開かれた2回目の万国平和会議に「密使」を送る。参加各国に日本の非を訴えようとしたのである。
これが裏目に出てしまう。各国から相手にされなかった上、これを知った伊藤ら日本側が激怒、皇帝は退位に追い込まれる。その後の第三次日韓協約で、内政への監督など統監の権限が大幅に増し韓国軍は解散させられた。
韓国国民はこれに反発を強め、反日義兵運動が激化していった。呉善花氏の『韓国併合への道 完全版』によれば、1910年までに日本軍との衝突は2819回に上った。
このため桂と小村寿太郎外相ら政府首脳は「併合」に傾く。明治42年4月10日、東京へ帰ってきた伊藤を訪ねて説得した。伊藤は意外にこれを承諾、7月6日の閣議で併合の方針を決めた。
伊藤が併合受け入れに転じたのは、その関心が韓国から満州に移っていたためとされる。伊藤は満州に日本が進出するのに反対だった。当時、韓国人が多く住む「間島」をめぐって清との紛争が生じていたが、伊藤は清の領土権を認めるのと引き換えに韓国の併合に反対しなかったという。
翌43(1910)年8月、日本は韓国と日韓併合条約を結び、京城と改称した漢城に朝鮮総督府を置き、支配体制を固める。初代朝鮮総督は長州出身の軍人、寺内正毅だった。 (皿木喜久)
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