第16回関西龍馬塾2日目の講師は、表ひろあき先生。
今回は東大阪市の枚岡神社で会場をお借りし勉強させていただきました。
表先生には今年1年CGSの「日本人を考える」という番組でもお世話になりました。
「日本人を考える」の概略を少し説明。
まずダイナミックな
仮説として。
①世界にはかつてかなりのレベルをもった文明があったが、数万年前に何らかの理由で突然消滅している。
(根拠は古代文字が世界で共通していることや、1万年以上前の遺跡など)
②その生き残りが日本や今のメソポタミヤあたりに分かれて住んでいた。日本の方からメソポタミヤにいったと考えてもいい。
(根拠は日本の土器やメソポタミアの遺跡。向こうの古代壁画には黒髪で黒い目の人間が描かれている)
ここからは神話や信仰をもとにした
仮説。
①日本列島にはもともと山岳系と海洋系の民族がいて、それぞれに神楽や浄瑠璃などを用いて文化や生活様式を伝えていた。
②しかし、その中でも力があったのは山岳系の民族で、彼らは水が豊かな西日本の地域(出雲)に点在し、集落(=小国家)を形成していた。
(彼らのことを総称して「出雲族」という。そのトップを「大国主」と呼んでいた。)
出雲族は稲作技術があったので、東北の地域などにその技術を伝播している。
(東北の神社の名前などから推定)
③そうした日本列島には、長い年月をかけて大陸から移民がやってきている。その一派が今のメソポタミアあたりからきたスサの王の一族。
(スサの王は役職なので「スサノオ」と言われていたと仮定。彼らはのちに朝鮮半島に新羅という国も建てたので表氏は「新羅系」とも呼ぶ)
④そのスサノオの一派(新羅系)は九州を経て日本に入り、その前から日本列島にいた出雲族と婚姻関係を結び連携していく。
その連携の後に新羅系のリーダーは、日本全国に植樹していっている。
(植樹しないと土地が豊かにならないことを彼らは知っていたから。)
⑤今から2670年ほど前に、スサノオの一派で九州を拠点に勢力を持っていた一族が、近畿に攻め上がる。
そして近畿で勢力を持っていた出雲族を中心にする一派とも連携をもつようになり、ここに西日本全体のを統括する「天皇」が誕生することになる。
⑥「天皇」を中心とする「大和」の勢力は、今の朝鮮半島にも勢力を広げていたので、海を越えての貿易などが盛んにおこなわれており、交流があったが、
時が経つうちに朝鮮半島の北の方からやってくる民族に押されて、領土などを失い、日本列島に亡命してくるようになる=渡来人。
⑦その渡来人の一派で、能力の高かった海洋系の属性を持つ一族が時の「天皇家」と連携を結び、日本の政治に大きな影響力をもつ時期もあった。
まとめ
こうした流れから、国津神と天津神のお話しができ、源氏と平氏や北朝と南朝といった区分も山岳系と海洋系の違いから派生していると考えると説明がつきやすいのではないかというのが表先生が提唱される歴史観。
もちろん学術的に通説とされているものとは違うことは理解した上での提唱。
8世紀に編纂された古事記のずっと前にも書物があり、それらを当時の権力者が整合性を持たせてまとめたものが古事記であり、またその古事記の解釈も、明治初期に当時の権力者により一部いじられているだろうと考えられるので、公式資料に残っているものがすべて正しいと考えるのではなく、全国各地の寺社仏閣に残っている書物や民間伝承などを総合的とらえ、想像力をもって日本人のルーツを考えてほしいというのが表先生のお考え。
番組では、その中の仮説をお話し頂きました。
今ある通説が様々な理由で100%正しいとは言えない以上、本当はどうだったのかという仮説を組み立てて、そこから日本人の知恵や歩みを想像力をもって各自で学んでいきましょう、という提案を私は上手く皆さんに伝えることができませんでした。
歴史は誰かが作るものなので、変わっていくものだということを普通の人は知らないのですね。
今年の大きな反省です。
ここまでが、今日の勉強会を受ける前の前知識です。
その上で以下が今日のお話。
今我々が今現在「神道」と呼んでいるものが、「神道(神社神道)」とされたのは明治になってから。
この時に神道十三派なども決められているし、天照大神を頂点とする伊勢派と出雲派の間の関係もある程度整理されている。
江戸時代は、「寺社奉行」と呼ばれたように、神社よりもお寺の方が力があったが、明治維新後、西欧に対応できる国の仕組みを確立するには、中央政府の元に監督できる統一の宗教が必要とされた。
廃仏毀釈が行われたのもその流れである。
戦後、神道は一宗教とされてしまったが、もともとは自然信仰から派生した生活様式である。
今では、「神」と「GOD」は同一のものとされているが、その理解からして違う。
「GOD」とは、キリスト教の最高神であり、
日本語の「神」は、自然にやどる八百万の神をさす。
そして、本来の日本の信仰は、自然に対する畏怖の念をもった祭祀が生活様式におとしこまれたものであり、
その信仰の形が、明治期にまとめられて「神道」と呼ばれるものになったと考えた方がいい。
よって、神道は宗教ではないのである。
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こうした知識を大前提に
祝詞とはなにか?
玉串奉奠(タマグシホウテン)の意義と作法。
お祭りと神話の関係
神社参拝の際の作法を学びました。
表先生は、神道や古事記などの豊富な知識の上に、さらに修験道の行者として全国をまわり、各地の祭事や神職の生のお話を聞き、
日本人のルーツや日本文化の多彩さ、ご皇室の尊さを教えてくださいます。
私が聞き手として知識がないばかりに、CGSの中では非常にわかりにくい説明になったのを反省しながら、
今日のお話を聞いていました。
表先生を含め、今年CGSの講師をお願いした先生方のお話しを聞くと、保守を名乗って政治をやろうとする我々が如何にもの知らずかを思い知り、恥ずかしくなと同時に、そんな教育しかできていない今の日本に危機感を覚えます。
日本人が日本のことを知らないですし、中途半端に知った人がちょっと捻じ曲がったナショナリズムで保守を語ることが多いとも感じる今日この頃。
そもそも守るものが何かを知らないのです。
という私もまだまだもの知らず。
自分がものを知らないことをちゃんと頭に刻みながら、これからの活動をしていきたいと思います。
改めてそう感じた勉強会でした。
用語説明*神道十三派(ウェキペディアより)
明治時代に、国家神道(神社神道)を確立する過程で、祭政一致である祭祀を司る国家神道と、政教分離である宗教機能を持つ教派神道に分離された。教部省が神道の中央機関である神道事務局を用意し、そこに元来ばらばらに存在した民衆信仰的な宗教を所属させ、信者数など一定の条件を満たした教派を独立教派として公認した。明治政府の宗教行政で明治時代に14派が公認された。それは神道大教、黒住教、神道修成派、神宮教、出雲大社教、枎桑教、實行教、神道大成教、神習教、御嶽教、神理教、禊教、金光教、天理教であった。そのうち1派、神宮教が1899年(明治32年)に財団法人神宮奉賛会となり離脱したため、行政上公認された神道系の教団を意味する教派神道の合計が13教派である期間が続いた。この13派を神道十三派と呼ぶ。なお仏教の認可は当時、仏教13宗である。加えて戦後、教派神道連合会に大本が加盟している。
*廃仏毀釈(ウェキペディアより)
一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。
神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。
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