最近、活動報告が滞りがちです。1ヶ月ぶりの更新になります。
フェイスブックでは毎日こまめに活動をアップし、アメーバブログでも細かい報告はしているのですが、まとまった活動報告を書くには2~3時間を要すので、どうしても遅れてしまいます。
1ヶ月ぶりの活動報告となりますが、
この間4月の28~30日は龍馬プロジェクトの第8回総会と研修会があり、
5月の15~23日は真珠湾とランドオブアロハの視察のため、人生初のハワイにいってきました。
その他、会社の新規サイトの政策や、プライベートな出来事などいろいろと書くことはあるのですが、散漫になってもいけないので、今日はハワイ研修について報告します。
ハワイでどんなところを回ってきたかはこちらのブログをごらんください。
今回最初に回ったのは、ハワイの神社です。
皆さん、ハワイに神社があるってご存知でしたか?
ハワイには8つの島がありますが、そこに7つの神社が残っています。
なぜ、ハワイに神社があるかといえば、1868年から多くの日本人移民がハワイに渡ったからなんです。
移民といえばブラジルなどが有名ですし、戦時中は大陸や台湾にもたくさんの日本人が移住しましたが、近代において海外移住のさきがけとなったのがハワイだったんですね。
19世紀にハワイで盛んになったサトウキビ栽培を支える労働力として移民が受け入れられるようになりましたが、最初に入ってきた中国人の働きが良くなかったため、ハワイ政府から江戸幕府に要請があり、300人の移民を送ることがきまりました。
しかし、その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化します。
それでも、すでに渡航準備を終えていたハワイ川の代表は、1868年(明治元年)、サイオト号で約150名の日本人を無許可でホノルルへ送り出します。
こうして送られた初の日本人労働者は【元年者】と呼ばれています。
その後、1885年(明治18年)1月、日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになりました。
こうして政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれ、1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイにわたっています。
さらに1894年の官約移民の廃止と同時期に、民間移民会社が認可されることとなり、以後は日本の民間会社を通した斡旋(私約移民)が行われるようになりました。
しかし、1900年のハワイ併合、1908年の日米紳士協約などによりこれらの会社は全て消滅。1924年の移民法成立により、日本人のハワイへの移住は事実上不可能となったというのがハワイへの日本人移民の大まかな経緯です。
移民が本格的に行われた1885年から1900年の間に、全体で約74000人がハワイへ渡ったといいますから当時の人口規模を考えればかなりの数ですね。
(1885年の944名の第一回官約移民のうち、約3割は山口県の大島郡の人たちで、今でも山口の周防大島町には日本ハワイ移民資料館があります。)
こうして日本からハワイに渡ってきた人たちが作っていったのが、ハワイにある神社です。
今回はオアフ島の布哇(ハワイ)大神宮、布哇出雲大社、ハワイ金刀比羅神社とハワイ大宰府天満宮を参拝し、宮司の皆さんのお話をお聞きしてきました。
日系人も少しずつ神社を参る慣習が薄れて、維持存続が大変そうな様子も伺えました。
そんなハワイの神社の中で、一番古くに建立されたのが、研修ツアーとは別に行ったハワイ島のヒロにあるヒロ大神宮です。
こちらは1898年にできており、日本国外で最古の歴史を持つ神社なんです。
ここには神様に呼ばれていった気がしています。
というのも行く予定がなかったんですが、偶然ツアー後の休暇でハワイ島に行き、ヒロの町を走っていたら
鳥居のようなものが見えたので、「あっ、神社に行きたい」と感じ、ネットで調べたら近くにヒロ大神宮がありました。
参拝すると日本人の宮司がおられ、社務所に入ると、、、、
なんと私たちがつくった古事記の紙芝居がおいておありました。
紙芝居のみつけた反応を見て、堀田宮司も「神谷さんじゃないですか!!」と声をかけてくださいました。
堀田宮司もCGSを見てくださっていて、古事記の紙芝居をご購入いただいたとの事。
英訳し、現地の子供たちにも日本の神話を伝えてくださっているそうです。すごい偶然と出会いに一日中嬉しくなっていました!!
話を移民に戻すと、その後定住した日本人移民の子孫は増加し、ハワイの全人口における日本人移民と日系人の割合は増加を続けます。
その後勃発した大東亜戦争下では、アメリカ本土の日本人移民と日系アメリカ人がアメリカ政府により強制収容されますが、ハワイにおいては日系人人口が多過ぎて(全体の半分とも言われる)、その全てを収容することが事実上不可能である上、もし日系人を強制収用するとハワイの経済が立ち行かなくなると推測されたことから、アメリカへの帰属心が弱く、しかも影響力が強いと目された一部の日系人しか強制収容の対象とならなかったのです。
しかし、決して日系人に対する対応が良かったわけではなく、差別や偏見と戦わねばなりませんでした。
そうして戦時中に日系人で創設されたのが第442連隊戦闘団です。
部隊では士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていて、ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇敢に戦いました。
その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示しており、アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られています。
今回は元兵士の方のインタビューをさせていただく予定でしたが、体調不要のため面会かなわずでした。
元兵士の方の証言はこの映画でもご覧になれますので、是非一度みてみてください。
『442日系部隊 アメリカ史上最強の陸軍』(2010年11月13日公開)
今回は、442部隊ではなく、別の情報部で働いておられた築山テッドさんのインタビューをお願いすることはできました。
テッドさんの話をお聞きすると如何に彼らがアメリカに忠誠をつくして戦ったかがわかり、日本人としては複雑な気持ちでした。
しかし、こうしてアメリカのために果敢に戦った日系人の先輩がいるおかげで、現在でもハワイにおける日系人の地位がしっかり維持され、その恩恵もあり日本人がたくさん観光にいける土壌ができているのだと今回肌で感じることができました。
今回のツアーのメインの一つだったパールハーバーの歴史展示群。
アリゾナ記念館に行く前には、歴史展示や動画をみました。
一緒に行った参加者の方の中には、「日本を悪者として描写せず、むしろ好敵手として描くことで、米軍の活躍を際立たせている。上手な演出だし、描き方がフェアだ」という方もいました。
日本人は、アメリカと無謀な戦争をしたと教え込まれますが、
開戦当初の軍事力は日本の方が高く、ミッドウェーまでは日本が優勢だったことをしっかり日本人が知らねばなりません。
その点をハワイの展示ではしっかり書いています。
しかし、なぜ日本が真珠湾に戦争を仕掛けたのか(本当はアメリカが先に日本を攻撃しているが)ということはあまり明確には書かれていませんでした。
日本の覇権主義が中国大陸に広がり、それを防ぐために、、みたいな描写でしたが、ここはフェアではないと感じました。日本は最後まで対米決戦を避けようと必死の交渉を重ねています。
それを踏みにじったのはルースベルト大統領の方であり、トルーマン大統領の回顧録などがいつの日かパールパーバーに展示されることを祈念します。
ミズーリ号では、体当たりした特攻機とサレンダーデッキの説明。共になんともいわれぬ気持ちになりました。この場にペリーの旗を掲げてある意味を日本人としてどうとらえるか?
ガイドの方の説明を言葉通りに受け取れない自分がいました。
日本とハワイの歴史を考えるため、ハワイ最大の博物館といわれるビショップ博物館にも行き、歴史についても学んできました。
環太平洋の展示をみて、おそらく有史以前より日本とハワイは海によって繋がっていただろうと推測しました。
海洋民族であった先人は、船と海流を利用し、かなり高域な交流をしていたことが推察されます。
カメハメハ大王の銅像を見ると、なんと日本のフンドシのようなものを身につけています。
ひょっとするとこの服装も日本からの伝播があったのかもしれません。
これも有名な話ですが、1881年にハワイ王国のカラカウア王は、移民問題について学びまた外交関係を改善するためハワイを発ち、
サンフランシスコを経て日本にもきています。初の外国元首の来日となった日本では明治天皇と会見し移民の要請およびカイウラニ王女と山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)
の政略結婚を要請しておられます(後者は明治政府に断られた)。
日本がハワイに移民をたくさん送ったのは、こうした依頼があったからなんです。もしこの時、日本がアメリカを気にせず、政略結婚が成立していたら、ハワイはアメリカに併合されなくて済んだかもしれません。
実際にその後アメリカが、ハワイを併合していこうという過程で、日本は東郷平八郎に2隻の軍艦を任せて、ハワイに送っているのです。
表向きは邦人の保護でしたが、裏には特別な依頼があったのかもしれません。
ハワイをアメリカに押さえられたのが大きかったのです。それが40年後の真珠湾攻撃に繋がっていくんだな~と思ったわけです。
ハワイ王朝の歴史を遡りながら、歴史の「IF」を考えてみました。
*歴史の経緯はこちらを参照ください。
1900年にハワイは、アメリカ合衆国に併合されたわけですが、1993年に奪われたハワイ人の土地を返して欲しいと当時のクリントン大統領に談判し、
一部の土地を取り返した人々が今、ハワイに自治国家を作ろうとしています。
そこがランド・オブ・アロハです。
今回はそこの元首のバンピー氏にお時間を頂き、ランドオブアロハの理念などをお聞きするのが、ツアーのメインでした。
ランドオブアロハの詳細はホームページをご覧頂くとして、今回はバンピー氏や関わるみなさんの熱を感じとりにいくのがポイントでした。
お金や軍事力だけではなく、アロハの心で世界の平和を目指したいというメッセージから、私たちが目指す「シラス」政治に近いものを感じました。
ランドオブアロハの国づくりに日本の力を借りたいとおっしゃっていましたが、
一方で日本も早く自立して自分で自分の国を守れるようにしないといけないね、とも言われ、複雑な気持ちになりました。
皆さんが、憲法や通貨から自分たちでつくろうとしている姿は、我々日本人にとっては新鮮なものです。
我々は自分たちで立とうとしているのでしょうか。
日本は大国ですが、戦後清算せねばならない課題がたくさん残ってもいます。
今回のハワイでは、日本とハワイのかかわりや、そこから始まった敗戦の歴史を学んできました。
そして日本を一つのお手本に新たなコミュニティーを作ろうという人々との出会いは今後の活動にも繋がりそうです。
ハワイというと「観光」「ビーチ」「ゴルフ」というイメージかもしれませんが、
視点を変えれば今回私たちが訪問した場所があり、学びをえることもできます。
皆さんもハワイに行くことがあれば、是非、こうした側面にも目を向けてみてください!!
閑話休題
研修ののち3日ほどプライベートで、ハワイ島のマウナケアに登らせてもらいました。4200メートルからの景色は一生の思い出になりました。
ガイドをしてくださった菅原さんは、環境保全の取り組みもされており、日本の学校などでも多数講演をされる方でした。ハワイをとおして考える環境のお話は私も大変参考になりました。
またインタビューをして皆さんにもお伝えしたいと思います。
ハワイのホノルルは私が知る中で、海外で日本人が一番多い町でした。
日系人のおかげもあって、日本人が一番幅を利かせられる訳ですが、かつて日本に経済力があったときにはこんな地域がたくさんあったのでしょう。それがどんどん違う国にかわっていっています。少しタイムスリップしたような感覚を受けました。
また、アメリカの中のハワイを見ると、そこはホームレスが一番多いといわれる州でもあるそうです。観光ルートを外れるシティーバスにのれば、たくさんのホームレスを目にしました。彼らはアメリカ本土から片道切符でやってくるそうです。日本の大阪市ではないないんですが、暖かくてホームレスに優しい環境がそうした事象を生んでいるようで、日本人の観光リゾートとイメージとはまた違う側面もあるのでした。
雑感でした。