私もベトナムにいくまで
ベトナムのイメージはよくなかったですf^_^;
しかし、向こうにいくと変わります。
日本をよく思って下さる方もたくさんいますから!
明日はベトナムの学生さんたちが語学留学してくるので、入学式に花を添えに行きます。
アジアの国々との歴史や繋がりをしっかり学んでいきたいですね。
【賞賛されていた陸海軍 知られざる日本】
ベトナム独立のために戦った日本兵 士官学校設立に尽力
2014.09.30 ZAKZAK
かつて、ベトナム独立運動の指導者、ファン・ボイチャウ氏は、国民に「日本に行き、そして学べ」と呼びかけた。日本留学運動「東遊」(ドンズー)の始まりである。仏文学者の小松清氏によれば、1907年には約300人ものベトナム人子弟が日本で学んでいたという。首都・ハノイに「東京義塾」なるものまで登場したとされる。
ベトナム人は日本を憧れ続けてきたのである。
ところが、日本人はベトナムを色眼鏡で見てきたフシがある。ベトナムがソ連の支援を受けて、自由主義陣営の米国と戦ったという強烈な記憶と、それにまつわる負のイメージがつきまとっているからだろう。
一方、ベトナムでは庶民レベルでも日本への印象はいい。なぜなのか。それは大東亜戦争における日本軍の敢闘精神と、日本軍人の立ち振る舞いに起因しているようだ。
ここに、日本人がすっかり忘れてしまった日越交流秘話がある。
実は、フランスの植民地だったベトナムの独立を日本は支援したのだ。戦争末期の1945年3月9日、日本軍は「明号作戦」を発動し、仏ジャン・ドグー総督らを逮捕するとともに、土橋勇逸(ゆういつ)中将率いる第38軍が、激しい戦闘の末にエメー中将率いる仏印軍を制圧した。
ところが、日本は同年8月15日、ポツダム宣言を受諾して降伏した。ベトナムの独立も水泡に帰すかと思われたが、日本が降伏文書に調印した9月2日、革命を主導していたホー・チ・ミン氏は「ベトナム民主共和国」の独立を宣言した。そこへフランスが戻ってきて第1次インドシナ戦争(1946-54年)が勃発する。
興味深いエピソードがある。ホー氏の右腕であったボー・グエンザップ将軍は「抗日を旗印にしたが、日本が降伏するとホー氏は『日本人と戦うな。彼らを保護せよ』といった。日本人はその後もクアンガイの士官学校で軍事指導もしてくれた」と証言している(『20世紀特派員』産経新聞ニュースサービス)。
何があったのか。
インドシナで敗戦を迎えた日本軍将兵の中に、残留してベトナムの独立のために戦おうとする者が現れたのだ。また、ホーのベトナム民主共和国側も、日本軍の兵器譲渡を求め、日本軍将兵を教官として迎えたいと願い出てきたのである。
こうして、46年6月1日、教官と助教官が全員、元日本陸軍の将校と下士官というベトナム初の士官学校「クアンガイ陸軍中学」が設立された。選抜されたベトナム青年約400人は、日本人教官から戦技・戦術をはじめ、指揮統制要領など日本陸軍の実戦ノウハウを学んだ。
そして、約800人ともいわれる残留日本兵は、ベトナム人とともにベトナム独立のためにインドシナ戦争を戦い、その尊い命をささげたのだ。このことが「親日国家・ベトナム」の誕生に大きく寄与したことを忘れてはならない。
ベトナム初の士官学校「クアンガイ陸軍中学」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%A4%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E5%AD%A6
■井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。著書に『国防の真実』(双葉社)、『尖閣武力衝突』(飛鳥新社)、『日本が戦ってくれて感謝しています-アジアが賞賛する日本とあの戦争』(産経新聞出版)など。
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