昨年に続いて、青年会議所(JC)のGTSの事業をきっかけに、ミャンマーに調査と研修に行ってきました。
一昨年は硫黄島へ、昨年はカンボジアへと、青年会議所には毎年いろいろ学ぶ機会を頂いています。
*GTSとは、 グローバルトレーニングスクールの略で、JCメンバーが国際的な支援や交流を通して現地の現実を肌で感じ、
グローバルな視点で物事を考え、同じ地球に生きる人間として行動していくことを訓練することです。
まず、ミャンマーの基礎情報から。
面積:68万平方キロメートル(日本の1.8倍)
人口:6367万人
宗教:仏教89%、キリスト教4%、イスラム教4%、その他3%
平均年齢:27.6歳
平均寿命:65.6歳
徴兵制:2010年から 期間2年間
主要産業:農業(GDPの約40%)
名目GDP:約540億ドル
一人当たりGDP:868ドル 世界162位 (日本:38491ドル)
経済成長率 5%
ミャンマーといえば、以前の国名がビルマ。ビルマといって我々世代が連想するのは『ビルマの竪琴』です。
この映画を知らない若い世代の方もいると思いますが、この映画はビルマで戦った日本軍人のお話です。
(裏話ですが、、このビルマの竪琴のロケ地はビルマではなく、すべてタイだそうです、、、)
そうなんです。ビルマかつての大東亜戦争の南方の最前線で1941年~45年の間に合計19万人もの戦死者を出した、
最大の戦地でした。
ですから今でも、ミャンマーには多くの日本人慰霊碑があり、現地の方が管理をしてくださっています。
では、日本が進行したビルマの人々は日本人を恨んでいるかというと、、、そうではありませんでした。
少しビルマの歴史のお話をしましょう。
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ビルマ(現ミャンマー)は19世紀に3度にわたってイギリスの攻撃を受け、1886年にイギリスの植民地とされました。
インドの一州に組み込まれて、国王はスリランカへ流されて王政は断絶。イギリス人は、
インド人や中国人をうまく使ってビルマを間接占領します。
そうしたイギリスの支配下にあったビルマから、日露戦争に勝利した日本に留学生が来ていました。
それがビルマの僧であったオッタマです。
彼は3年間日本に滞在し、『日本』という本をビルマで出版しています。
その中には、「我々も仏陀の教えを中心に青年が団結、決起し、日本に頼れば、必ず独立を勝ち取ることができる。」と書かれています。
オッタマの独立運動は実を結ぶことなく、彼は1939年に獄死していますが、その想いを次いだ青年の一人に、のちに「ビルマ建国の父」
と呼ばれるオン・サンがいました。このオン・サンは、
アウンサン・ス-・チー女史のお父さんに当たる人です。
オン・サンらの独立運動は1930年代にはうまくいかず、当時、
英米によるビルマルートからの中国の蒋介石軍への軍用物資の援助の遮断が日中戦争早期終結のための不可欠と考えていた日本はオン・
サンらの支援を通し、イギリス勢力を追放するためにビルマ独立を支援します。
1940年、日本陸軍は鈴木敬司大佐をビルマに派遣、オン・サンらを救出し、日本に亡命させます。
翌1941年、日本の資金援助と軍事援助を約束されたオン・サンは一旦ビルマに戻ると、青年たちを募り「三十人の志士」
と後に呼ばれる仲間を率いて中国の海南島へ出国します。彼らは鈴木大佐の「南機関」のもとで独立戦争のための苛酷な軍事訓練を受けるのです。
その後、鈴木大佐を司令官とするビルマ義勇軍は、ビルマの人々の協力もあってわずか3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、
イギリス軍を敗走させます。
そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマは独立を宣言しました。
この後、日本のインパール作戦の失敗などで、オン・
サンらは日本を裏切りイギリスに寝返りますが、今度はまたイギリスの統治を受けるようになり、
ビルマの本当の独立は1948年まで実現することはありませんでした。
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歴史にはいろいろな見方があります。
日本軍がイギリスを追い払うためにビルマ人を利用したという見方もできますし、日本がビルマの独立を助けたという見方もできます。
こうした歴史の評価は、皆さんにお任せしますが、少なくとも単に日本はビルマに侵攻し、ビルマ人を殺害したわけではなく、
ビルマにいたイギリス人やインド人と戦ったというのが事実です。
ミャンマーの方に、日本との戦争の話を聞きましたがあまりネガティブなイメージはないとのことでした。
事前に調べた範囲では、教科書で日本軍のことを悪く書いているとのことでしたが、、、。
私が聞いた話の一つ。
『日本人はイギリス人と違い、ビルマ人と一緒に生活もしたし、優しい人が多かった。
しかし、日本人が部下でつれてきていたシナ人は、略奪や強姦などもしたので、そういう意味では日本軍がきて被害があった。』
日本軍の中に、台湾人や朝鮮人がいたことは知っていますが、
占領した中国の人間もビルマに連れて行っていたという話は初めて訊きました。
この話を詳しく知っている方がいれば、私もお聞きしたいです。
日本は嫌われているどころか、ヤンゴンでは日本語学習者も多く、想像以上の親日度でかなり驚きました。
ミャンマーの大学で、日本語を教えているのはヤンゴン外大とマンダレー外大の2校のみですが、ヤンゴン外大では英語と1位、
2位を争うほど人気のある言語だとのこと。実際にヤンゴン外大卒のミャンマーの若者と交流しましたが、本当に日本好きで、
機会があれば是非日本にいきたいと言ってくれていました。
実は、私はミャンマーはかなり中国びいきかと感じていた部分があります。
それは独立後のミャンマーの歴史的背景を見ていかねばなりません。
細かく書いてもややこしくなるので、かなり大雑把に書きます。
1948年に独立したビルマでしたが、1962年にネ・
ウィン将軍(「三十人の志士」の一人)が軍事クーデターを起こし、大統領となり、
ビルマ式社会主義を掲げた一党独裁の軍事政権が誕生します。
ネ大統領の政権下では、中国の支援を受けるビルマ共産党やアメリカともけん制しながら、
外国勢力を排除した中立な国家運営がされましたが、経済政策は大失敗で、ビルマの経済力はかなり低下していきます。
1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、軍部が再度クーデターにより政権を掌握します。
軍事政権は総選挙を公約とし、民主化指導者アウンサンスーチー氏らは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、
スーチー氏は選挙前の1989年に自宅軟禁されました。1990年に投票が行われ、スーチー氏率いる国民民主連盟 (NLD)
が圧勝するも、軍事政権はこの選挙結果を認めず、政権の移譲を拒絶し続けるのです。
その後もスーチーの自宅軟禁が続き、米国は1997年にミャンマーに対する新規投資を禁止します。
この制裁発動以前に投資していた事業さらに2003年に、民主化運動のリーダー、スーチー氏が再び拘束されたことによって、
米国は対ミャンマー制裁法を新たに制定した為、米国の経済制裁は始まるのです。
経済制裁の内容
①金融サービス規制
②新規投資規制
③ミャンマー政府・軍関係者等へのビザ発給制限
④ミャンマー製品輸入の米国規制
⑤軍関係者など特定個人の資産凍結
(日本の対応= 欧米諸国とは対照的に、 1988年の軍事クーデター後に成立した軍事政権をいち早く承認。
軍事政権との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきた。ただし、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止。)
こうして、かつてインドシナ半島のなかで1人当たり名目GDPが相対的に高く、経済優等国だと言われていたミャンマーは、
資本受け入れや輸出による経済成長ができなくなり、アジアの最貧国となっていきます。
この間、ミャンマーに裏で支援をしたのが中国です。
ですから、ミャンマーの軍事政権関係者は中国共産党とのパイプが太く、ビジネス面でも中国が深く入り込んでいます。
こうした経緯があるので、ミャンマー人はもっと中国びいきかと考えていたわけですが、
繋がりがあるのはどうも利権を持つ軍関係者が多いようで、
利権構造を知る一般国民は中国人に対して好意はもっていないようです。
あとでリンクするブログにも触れていますが、ミャンマーでは自国の電気が足りないのに、
中国に送電をしようとする政治家がいるようですし、
中国はミャンマー国内の反政府組織に武器を供与し、その組織は麻薬の製造なども行っているとのこと。
そんなことをしていたら、確かに嫌われますね。
こんなミャンマーが、東南アジア最後のフロンティアと呼ばれるようになった経緯ももう少し見ていきましょう。
ミャンマーでは2010年、20年ぶりに総選挙が実施され、2011年3月にはテイン・セイン氏を大統領とする新政府が発足し、民主化勢力との対話や改革・
開放路線を歩み始めました。
その流れを受けて、アジア太平洋へ外交の重点をシフトするアメリカとっても、ミャンマー重要性がまし、
ミャンマーに対する経済制裁を緩和し始めたわけです。これにより、これまでビザ発給規制対象であったティン・
セイン大統領への米国ビザが発給され、歴史的な訪米が実現しました。
アメリカの動きにあわせて、日本も動いています。2012年2月、
日本政府はヤンゴン郊外のティラワ港経済特別区のインフラ整備を請け負い、日本企業の誘致が進んでいます。
日本企業の進出にあたってはメリットとデメリットが挙げられています。
メリット
①賃金水準の低さ、 ②6000万人の人口と市場、③地政学的立地、 ④
豊富な天然資源
デメリット
①政治的リスク、②未だ残る経済制限、③電力供給等の脆弱なインフラ、
④法律の未整備
中でも政治的なリスクが一番大きいと思いました。
現大統領は民主化を進めようとしているわけですが、見せ掛けではないか、来年の選挙でそれがどこまで実現するのか、、
かつてのように軍事クーデターが起きないとも限りません。
また、スーチー氏のような民主化をすすめるニューリーダーが誕生するかというと、
私の聞いたところスーチー氏のご主人や息子さんはイギリス人で、
そんな人をリーダーに選んだら、
またかつてのようにイギリスやアメリカに間接的に経済統治されてしまうのでないかという不安も国民の中にはあるようです。
中国も牽制しているでしょうし、、まだまだどうなるか不安定要素が多いフロンティアです。
そんな状況で日本ができることは、
やはり経済交流を深め、日本企業の利益も求めつつミャンマー人の賃金アップに協力すること、文化的交流を進め、
今以上に親日度を高めることではないでしょうか。
文化的進出では、やはりここでも韓国がリードしている感があります。
誰もが視聴可能な地上波無料放送で主要な2つのチャンネルで流れているテレビドラマの7割が韓国ドラマで、ミャンマーでは
「テレビドラマ=韓国ドラマ」というイメージがここ10年で植えつけられているそうです。 台湾でもそうでしたが、
ドラマを通じて韓国のライフスタイルに対するあこがれも若者層を中心に広がっています。日本はこうした点で、
もっと戦略的にアジアに出て行くことが必要だとミャンマーでも感じました。
以上、ミャンマーで見聞きした事を中心に報告をまとめました。
GTSの活動などは、ブログの方にまとめているのでこちらはリンクを張っておきます。
農村部での交流などは、JCの事業でないとなかなか経験できません。
初めてのミャンマー *
ヤンゴン市内では原付バイクの使用が禁止されていることを後で知りました。
今回はあまり時間もなく、もっと調べたいことや訊きたいことがありました。
次回はもう少し本格的な視察を計画しミャンマーにいければと考えています。