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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)

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中国へのODA

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私はかつてはODAを行うこと事態に疑問を感じていました。

しかし、単なる海外援助ではなく、国内の企業にもメリットのあることが分かりましたし(政治家が間に入って利権にするのは問題外)、

実際に海外にいって、日本のODAでつくられたインフラなどを、現地の方が使いながら、日本を評価してくれるのを知って、意義のあることだ、と考えるようになりました。

今の日本があるのも、諸外国に支えてもらっての部分は大きいですから、できる恩返しはしないといけません。

けれども、明らかに日本に敵意を向ける国に援助をする必要はあるでしょうか。

中国の発展にと、要請を受けて中国に進出した企業はどうなったか。

未だに、歴史責任を問い、賠償金を求める国に、本当に協力する必要があるのか。

感情論にならないように注意しつつ、中国に出ている日本企業のことも考慮し、考える必要があります。

今後の日本のあり方、中国や韓国との関係を考えるターニングポイントに来ている気がします。

日本にも余裕がなくなってきています。

日本を貶め、軍事挑発している中国になぜ日本政府は年300億円も“貢ぐ”のか…いつまで続ける対中ODA、総額3.6兆円の“受け入れ難き現実”

2014.5.5 12:00 産経新聞

日本の政府開発援助(ODA)を利用して建設されたモノレール。だが、駅構内を探してもそれが分かる表示は見当たらなかった=中国・重慶市

 尖閣諸島(沖縄県石垣市)への領海侵犯を繰り返し、東シナ海上空に防空識別圏を一方的に設定するなど、膨張主義的な政策を取り続けている中国。その中国に対し、日本が政府開発援助(ODA)をいまだに続けており、その額は1年で300億円にもなる。日本固有の領土である尖閣諸島を虎視眈々と狙い、歴史問題を振りかざして国際社会における日本の名誉を徹底的におとしめようとしている中国に資金提供とは…。にわかには信じられないが、動かぬ事実でもある。

■この瞬間も…3.65兆円の対中ODA

 ODAは、低利で資金を貸す円借款、返済義務のない資金を供与する無償資金協力、技術や知識のある専門家の派遣や開発計画を支援する技術協力の3つに大別されている。

 中国に対するODA供与は昭和55(1980)年に始まった。以来、平成23年度まで、日本は円借款3兆3164億円、無償資金協力1566億円、技術協力1772億円を中国に対して供与している。

 円借款はかつて中国国内の空港・港湾、鉄道・交通網整備、発電所などの大型インフラ整備に投下され、中国の経済発展を支える基盤となった。しかし、「インフラの整備は結果的に中国の軍事力増強を下支えすることになりかねない」「円借款が中国国内でどのように使われているか不透明な部分がある」などの批判を受けて、20年の北京オリンピック前までに新たな供与を終了することで日中両国政府が折り合った。

平成19(2007)年12月に日中双方が確認した6つの案件を最後に円借款を新たに供与することを中止。だが、無償資金協力と技術援助についてはいまだに継続されている。

 外務省が出している24年のODAに関する国別データブックによると、23年度の中国に対する無償資金と技術協力の額の合計は約41億円に上る。ただ、これはあくまでも外務省分であって、経済産業省や文部科学省などほかの省庁を合わせた数字はさらに跳ね上がる。

■中国に年300億円も「贈与」する事情

 改めて外務省が出している24年版ODA白書をみてみると、23年の中国に対する無償資金協力は約1300万ドル、技術協力は2億8700万ドルの計約3億ドルに上る。1ドル100円で換算してみると、300億円にも及ぶ資金が日本から中国に流れていることになる。

 低利で資金を貸し出す円借款は、中国が拒否しない限り、いずれ日本に回収される。しかし、無償資金協力と技術協力は「贈与」であり、日本には1円も返ってこない。

 円借款の供与中止を決めた際、無償資金協力と技術援助が継続されたのは、黄砂、感染症、大気汚染などの対策や留学生を軸とした人材交流を深めて、日中両国の互恵的な関係を構築しようという狙いがあった。背景には巨額の資金を提供する円借款では日本国内の理解は得にくいが、環境対策や日系企業の進出を念頭に置いた中国国内の社会制度整備に対する援助ならば、大きな反対の声は上がらないだろうとの読みも政府内にはあったという。

だが、中国国内で発生した微小粒子物質「PM2・5」が流れ込むことに伴う日本国内での健康被害への懸念や頻発する反日暴動による日系企業への甚大な被害などを考えたら、こうした無償資金協力や技術協力がどの程度効果を上げているのかは極めて疑わしいといえるのではないか。

■無償資金協力と技術協力は残ったが…

 無償資金協力と技術協力の継続を決めた当時、外務省内には留学支援などの人材育成について「将来の中国を担う幹部候補生を『親日派』に育成する意義は大きい」との声があったが、中国国内に吹き荒れる反日の嵐をみれば、こうしたもくろみは完全に外れたといえる。

 ところが、中国に対するODA供与を改めて見直そうという目立った動きは外務省に起きていない。むしろ、無償資金協力や技術協力の成果や効果を強調している。ODAに関する国別データブックは、中国に対するODA供与について、「両国民間の相互理解の増進も日中関係の健全な発展を促進するために重要であり、そのような分野におけるODAを通じた取組は依然として一定の意義を有している」と記している。

■中国は戦争賠償の代替とのとらえ方

 そもそも中国側には日本によるODA供与は、中国に対する戦争賠償の代替の意味合いを持っているとの認識がある。昭和47年9月に出された日中共同声明の第5項では、中国は日本に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言しており、中国が戦争賠償の代替という認識を持っているとすれば完全な誤りだ。

しかし、平成12年5月に来日した中国の唐家●(=王へんに旋)外相(当時)は「中国に対するODAは、戦後賠償に代わる行為である」との認識を示した。つまり、「日本がわれわれ中国に対して資金を提供するのは当然であり、むしろ義務といえる」という意識が彼らの根底にあるといっていい。

■まだ見えない見直し論

 中国は22年に国内

城巡りのススメ 最終回

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5日間約1600キロの東北城巡りの旅が終わりました。

1日目 青森 根城 南部氏

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2日目 青森 弘前城 津軽氏

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3日目 秋田 久保田城 佐竹氏

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3日目 盛岡 盛岡城 南部氏

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5日目 山形 山形城 最上氏

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最上義光が一代でつくったといっても過言でない山形城。

伊達政宗、直江兼続、豊臣秀次、徳川家康といった知将や権利者と渡り合えた義光がいなければ、今の山形の基盤はなかったかもしれませんね。

いつか大河ドラマの主人公にしてもいいくらいの波乱の人生を送った人物の居城です。

5日目 福島 二本松城

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畠山、伊達、上杉、蒲生、丹羽と主人を変えた二本松城は、戊辰戦争の二本松少年隊でも有名です。

古来からの交通の要所をおさえる城には様々な物語があります。

5日目 宮城 多賀城

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1300年前から東北当地の要となった城。300年ほど歴史にのこる東北の拠点です。

松尾芭蕉が感動したのもわかります。
今は、ほとんどが農地になっていますが、一時間かけてぐるっと周り、当時の様子を想像してみました。

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今回のコンセプトは、政治を離れてあくまで趣味で、日本100名城をまわることでした。

もちろん、100名城以外にも城、神社、寺、世界遺産、博物館などをまわりました。

関西にいる私からすると東北は遠く、馴染みの薄い場所でしたが、

その気になれば5日でそこそこまわれます。歴史やロマンはもう無限にありますし、食べ物も最高!

青森では、八戸の藤川議員。
秋田では、中泉参議。
岩手では、盛岡の金沢議長。
山形では、酒田の佐藤前議員。
福島では、本宮の菅野議員。

皆さんに、いろいろご紹介頂きました。
突然の連絡に親切な対応、皆さんありがとうございました。

震災後 、東北には何度も来ていましたが、こうしてプライベートでまわるのは20歳以来でした。

じっくりまわるとその地域の光と影を観ることができます。

今回は書きませんでしたが、
やはり震災の影響も感じます。

いつも東北の方に言われたのは、一番の応援は、東北に来てお金を使ってもらうことだ、っていうこと。

今回は、がっつり使いましたよ!

今回の私の一連のブログをみて頂き、東北行きたいなと思って頂いた方は、是非東北へいって下さい。

私は城を切り口にしましたが、他にもいろんな切り口があると思います。

一週間もあれば、全県まわれますから。実証済みf^_^;

私はまた、100名城以外の城をピックアップして、周りたいと思います。

また、明日からは政治ネタに戻ります。

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城巡りのススメ その3

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今日は9世紀に坂上田村麻呂らが築いた志波城と胆沢城をまわり、

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12世紀まで奥州藤原氏が栄えた平泉に行ってきました。

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共通して言えるのは『兵どもが夢のあと』ということですね。

9世紀の城はほとんど農地になっていて、今発掘が進められています。

何もない田畑の中にポツンと石碑などが残されているのをみて、1200年前にこの地が栄え、人間ドラマがあったことに思いを馳せます。

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また平泉などは、京都に勝るとも劣らない仏教芸術。どれほどの財力があったのかと想像しますし、それも一度戦いに敗れたらやはり庇護があっても駄目なんですね。

今は東京が栄えていますが、東京も400年前には湿原や野原。

この先どうなるかはわかりません。栄枯盛衰なんです。

2600年の重みは半端ないですね。

今日感じたのは、
1200年前と800年前の物語です。

本やネットで読んでいても、やはり現地にいかねばイメージは広がりません。

逆に一度訪れておけば、本などを読む度に画像が頭に浮かびます。

百聞は一見に如かず。

吉田松陰も坂本龍馬も日本中をまわっていましたね^_^

20歳の時もバイクで日本を一周しましたが、あの時はまだまだ知識がなかった。

今は今の知識でものを見るので見え方が全然違います。頭に入るものも。

また何年後かに、もっとゆっくり東北も周り、もっとじっくりいろいろ学びたいですね。

日本は城だらけの国。
それぞれの城にロマンがあります。

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城巡りのススメ その2

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今日も城を巡りました。

まず最初は、久保田城。

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関ヶ原の戦いで石田三成に義理だてし、兵を出さなかった佐竹氏が茨城から転封されて開いた平城です。

私も勘違いしていましたが、天守閣はなかったんですね。
つまり、戦う備えではなかったわけです。

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佐竹氏が清和源氏の流れとは知っていましたが、家系図をみると武田信玄の武田家と近く、佐竹氏が本家筋になることは初めてしりました。

また、佐竹の家は戊辰戦争で最後は新政府方についたので、このへんは盛岡などと温度差がありました。

次の城は、角館にある古城山城。

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ここは佐竹氏がやって来るまで数百年戸沢氏の居城でした。

城下の町は佐竹氏一色になってますが、転封された戸沢氏や当時の領民の気持ちを想像しました。

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今の選挙区替えとはレベルが違います。政治家は昔の方が大変だったのかもf^_^;

三つ目のお城は、
今回4つ目の100名城の一つ南部氏の盛岡城。

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昨日ブログに書きましたが、
南部氏のルーツは14世紀に山梨からきたことから始まります。

最初は青森の三戸からスタート。
それが下北半島から遠野まで領地としたわけですから凄い手腕です。

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しかし、驚くことに盛岡藩の当初の石高はたった10万石。

加賀が100万石ですから、領地の割に少な過ぎます。
これかなり領民に還元していたのでは?なんて想像してしまいます。

その盛岡城は、本当に100名城?というくらい何もありません。

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お隣のもりおか歴史文化館はかなり立派ですから、もう少し城の整備をしては?と感じます。

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そのあたりを4年ぶりにお会いした盛岡市議会議長の金沢陽介氏に聞いてみました。

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すると、、、

盛岡は戊辰戦争で負けてから、かなり自分たちの主張を抑えてきた。
城の整備にもそれが、表れているのでは。

といった意見でした。

確かにそれはあるかもしれません。

しかし、今の時代にもう戊辰戦争を引きずることはありません。
盛岡は盛岡の正義を堂々と語るべきだと私は思います。

今日改めて気づきましたが、
金沢議長がおっしゃる『盛岡の配慮』は、
大東亜戦争で負けた『日本の配慮』に繋がるように感じます。

負けたんだから、、

というのは理解できますが、
いつまでも歴史の裏に押し込めらていると、次の世代がちゃんと育ちませんん。

もっと自分たちの地域や国の歴史や誇りはしっかり語り継ぐべきです。

外に押し付ける必要はありませんが、内うちではしっかり次の世代に伝えるべきです。

地域に歴史やドラマのたくさんある地は、羨ましいf^_^;

南部氏の歴史をドラマにしたら面白いでしょうね。

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城巡りのススメ

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一昨日からお休みをとり、

東北のお城を回っています。

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1591年。
秀吉の小田原攻めの翌年に東北で反乱を起こし、歴史に出てこない九戸政実の九戸城。

アテルイや奥州藤原氏、戊辰戦争などどうも東北の歴史は、中央の歴史にかき消される感じがしますね。

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南部氏の居城の三戸城。

14世紀以来東北で生き抜いた南部氏の歴史を学びました。

近くには、キリストの墓がある新郷村もあります。

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八戸にも、根城南部氏の根城があります。

この城をつくった南部師行は、南北朝の争乱で1338年、大阪の堺で戦死しています。

700年前のこの移動距離。
我々の動きなど軽いものですね。

当時の侍の生き様には感じるところ大。

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弘前城は関ヶ原の戦い後に、津軽氏が建築した城です。

これ以降の城にはあまりロマンを感じません。

関係あるのは、戊辰戦争くらいですかね。

皆さんも日本全国の城や城跡をめぐり、日本の歴史やその時代を生きた人の思いを見つめてみるというのはいかがでしょうか?

教科書で学ぶシンプルな歴史ではなく、血の通う歴史になりますよ。

2600年の歴史はすごい。

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