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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)
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台湾研修 四日目 義愛公

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台湾南西部の嘉義県の富安宮という廟に「義愛公」と呼ばれ、戦前の日本の警察官の姿をした神様が祀られています。

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この警察官の名は森川清治郎。明治初めの実在の巡査です。

以下森川氏が祀られるようになった経緯。

明治30年(1900年)、森川清治郎は台湾の派出所に着任しました。

以下、日本語解説書より。

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当時の台湾は、各地で盗匪が絶えず出没し、民衆の生活を脅かしていました。環境衛生は劣悪でマラリヤ、ペスト、コレラ等の伝染病が発生しており、医療は未発達。

教育程度も低く、台南においての男子の文盲は9割という状況。

そのような世情の下、森川清治郎巡査は半農半漁の寒村に着任しました。

森川巡査は本来の警察官としての任務に遂行するかたわら、塾をつくり、自費で教師を雇い村民達には無料で読み書きを教えました。

また、衛生改善や農業指導にも尽力。
着任地の村の発展と民の安寧のために働きました。

ある日、怪我をして海中で泣いている村民を見付けました。森川巡査は海に飛び込みその漁師を救助し、そこから2キロほど離れた家まで背負い介抱しました。その後、救助された漁師よりも森川巡査の方が大怪我をしていた事を周囲は知り、森川巡査の義心に感動しました。

また1902年、総督府は漁業税を制定しました。貧しい村びとたちは、税の軽減をお願いできないかと督促の任につく森川巡査に嘆願しました。納税は国民の義務だが、村びとたちの貧苦を誰よりも知っている森川巡査は、上層部に上申しました。

しかし、森川巡査が村民を扇動していると曲解され、戒告処分になります。

村に戻った森川巡査は、村民たちに、悲痛な面持ちで語りました。「税金の事に就いては、自分のカではもうどうすることも出来ない。自分は首クビになってしまった。皆も苦しいだろうが、右の様な事情だから国の為と思って快く税金を納めてくれ、私からもお願いする」。

湧き上がる涙を村びとには見せまいと背を向け、森川巡査は宿舎に戻りました。

村びとと苦楽を共にし、村びとの安寧に尽くした森川巡査の失望の深いものでした。

次の日の朝、森川巡査は拳銃で自決しました。享年42歳。「疑われては弁解の術もない、覚悟する」と書き留められた名刺が一枚、ポケットに残されていました。

森川巡査を敬愛していたた村民たちは、変わり果てた姿の巡査にしがみつき号泣しました。森川巡査は、村びとたちの手によって、村の共同墓地に埋葬されました。

そして、約20年の歳月が経過します。

この地域で伝染病が大流行した大正12年のある日のこと、制服姿の警察官が夢枕に立ち、「衛生状態を改善せよ」と告げると去って行きました。

そのお告げは村に広まり、間も無く、村の伝染病はおさまりました。

村びとたちは、自分たちの親や祖父母に心から尽くしてくれた森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていることを心から感謝しました。

そして巡査の制服姿の神像を作り、富安宮という廟に「義愛公」と呼んでお祀りしました。

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そんな森川さんが神として祀られる富安宮を皆で参拝。

村長さんがわざわざお出迎えくださり、なんと神様を開帳して下さいました。

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実は今の廟は仮のもので、本体は立て替え中。

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今回訪れた寺院の中で一番豪華な建築物で、村長の好意で中を見学させて頂きました。

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なんとそこには龍馬(麒麟)が((((;゚Д゚)))))))

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壁には三国志のストーリーが描かれていました。

地域の方の想いで支えられるお寺に、
日本人が祀られているのは、本当に有難いです。

台湾人は本当に信心深いな、と感じる一日でした。

「恩」を大切にする国民性と聞いてます。

それは、3.11の時にも感じましたね。

我々も忘れないようにしましょう。

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