今日から6日間、台湾で研修です。
今回の目的は、20~40代の日本人に台湾と日本の繋がりを知ってもらい、日本で情報を広げてもらうことで、
日本人のアイデンティティーを感じてもらい、また日台の交流を深めてもらうことです。
今回の研修のきっかけはKAZUYAくんの依頼。25歳の青年に是非台湾を知ってもらいたいと思いました!
台湾到着後、まず最初に向かったのは台湾神社。
昭和13年に建てられた神社は今でも当時の様子を残しています。
かつては台湾に65箇所こうした神社があったようです。
続いて行ったのは、
台湾総督を務めた明石元二郎氏のお墓。
台湾最北地区の高級墓地に埋葬されており、これだけのスペースでも2000万くらいの場所代とか∑(゚Д゚)
先人を大切にして頂き有難いです。
たくさんの墓所が山じゅうにありました。
続いては、六氏先生の墓へ。
日本ではあまり知られていない、悲しいストーリーがありました。
日本は本気で台湾人に教育をしようとしていた証でもあると思います。
夜は、自由時報の本社へ行き、
社長の呉阿明氏(90歳)、張文芳氏(84歳)から日本統治時代のお話をお聞きしてきました!
いろいろなお話をききましたが、
台湾人はなぜ親日か?の回答がユニークでした。
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日本人は、嘘をつくな、礼儀を守れと道徳を教え、70%まで識字率を高めた。
インドネシアは3%、フィリピンで5%だったことを考えるとすごい違い。
また日本統治時代は汚職もほどんどなかった。
しかし、蒋介石の国民党が来てからは、教育も十分でなく、汚職も増えた。
台湾人は、日本人と中国人を比較することができたので、日本人の相対的な良さがよくわかる。
今の台湾経済の基礎は全て日本のおかげといってもいい。
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相対化できた台湾とできなかった朝鮮。
昔も聞いたお話ですが、、、
最近聞くと生々しく聞こえました。
お二人のかつての日本人の話は、参加者に響いたと思います。
こんな生のお話がきけるのもあと数年。
しっかり記憶にとどめ、伝えていかねばなりません。
#桃園神社(とうえんじんじゃ)
日本統治時代の台湾新竹州桃園郡桃園街大檜渓(現・桃園県桃園市)にあった神社である。現在は桃園県忠烈祠となっている。日本統治時代の外地の神社では珍しく当時の社殿がそのまま残されており、台湾の国家三級古蹟に指定されている。
#明石元二郎
明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) – 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の陸軍軍人。陸軍大将・勲一等・功三級・男爵。第7代台湾総督。
明石は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3,000万円程であった中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。
台湾総督の次は総理大臣にと期待されていたが、大正8年(1919年)、公務の為本土へ渡航中の洋上で病となり郷里の福岡で死去する。「もし自分の身の上に万一のことがあったら必ず台湾に葬るように」との遺言によって、遺骸は福岡から台湾にわざわざ移され、台北市の三板橋墓地(現在の林森公園)に埋葬された。その後、平成11年(1999年)に現地有志により台北県三芝郷(現在の新北市三芝区)の福音山基督教墓地へ改葬されている。
#六氏先生(ろくしせんせい/りくしせんせい)
日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。
彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。
この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。
1930年には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、1933年までに330人祀られた(そのうち台湾人教育者は24人)。
境内には六氏先生を合葬する墓があり、また社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月1日建立)が建てられた。
毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称された。
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