日々の活動やニュースに対する考え、視察の報告などをブログにまとめています。

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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)

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G1KIBOWチャリティーディナー

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今夜は龍馬プロジェクトも関わり企画を進めているG1東松龍盛塾のプレゼンと応援依頼のため、

G1KIBOWチャリティーディナーに参加してきました。

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堀代表や世耕参議院議員のスピーチ、乾杯に続いて、

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辰巳琢朗氏からメニューの紹介。

古田敦也さんや為末大さんからチャリティーオークションの出品とプレゼン。

それに続いての我々イニシアティブのプレゼンでしたf^_^;

つんくさんや竹中平蔵さんの講評があり、

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東北で活躍される皆さんの活動報告。

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社会起業家アワードとして、
大西健氶さんの表彰。

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締めくくりは素敵な音楽の演奏と盛りだくさんでした。

参加して嬉しかったのは、

東松龍盛塾に参加表明を頂いた方がいたことと、

CGSの視聴者の方がいらっしゃり応援の表明を頂いたことです。

厳しいスケジュールですが動いた分、
出会いもあります。

あと二日東京で頑張ってきます!

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五時間半の過酷な収録

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今日は朝から人材育成に関わるミーティング、

G1東松龍盛塾の企画会議をへて、

CGSのじっくり学ぼう近現代史の収録でした。

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二週間分まとめて収録したので、

時間的にもキツいんですが、

今日は5.15事件から日米開戦までの流れを抑えたので、内容がブルーです。

失策が続き、日本が戦争に巻き込まれていく過程を再確認するのは本当に過酷な作業でした。

体調不良もあり、頭痛がするほどです。

是非、配信で皆さんに見て頂きたいと思います。

なんとか気を取り直し、

G1チャリティーディナーでプレゼンしてきます。

もうひと踏ん張り!

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秋山好古に学ぶ

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私が秋山氏と同じ時代に生まれていてもあまり仲良くはならなかったと感じます。

彼はあまりに厳格過ぎますf^_^;

しかし、尊敬はしたと思います。

私も人生の最後は教育に関わって死にたいと思っています。

「何でも奉公させてもらうよ」

といえるくらい、自分を磨いていきたいと思い、秋山氏の生き様から学びます。

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【忘れ難き偉人伝】
秋山好古(上)
「何でも奉公させてもらうよ」
2013.5.25 09:15

 大正13(1924)年4月7日午前7時前、松山の私立北予中学校の校門前で生徒が知らない男が笑顔で会釈していた。

 「あの愛想のええ、変なおやじはだれぞな」。生徒たちはささやき合う。7時45分、講堂に集められた生徒たちは壇上に上がった新任校長を見て仰天する。さきほどのおやじだった。

 「おはよう、生徒諸君。私が今度、校長になった秋山好古だ。私は前校長から2つの宝物を預かった。ひとつは若き鳳凰(ほうおう)である諸君たちであり、もうひとつはその若鳥を育て上げる巣箱であるこの校舎だ。私はこの2つの宝物をさらに磨き上げ、お国への報恩感謝の標(しるし)としたい」

 学校は歩兵第22連隊に隣接しているため、軍人は見慣れているが、連隊長でも陸軍大佐であり、将官を見る機会もない。まして日露戦争の英雄で、陸軍大将だった秋山好古(1859~1930年)の突然の帰郷は周囲を驚かせた。
 好古は同9年12月、教育総監を任命された。陸軍将兵教育の最高職で師範学校出身の好古らしい陸軍最後のお役目だった。同12年3月末、予備役となる。

 翌年の正月、北予中理事で伊予鉄道社長の井上要が好古邸を訪れ、校長就任を要請する。当時、北予中は経営も行き詰まり、地元での評判も芳しくなかった。

 「国家の大計は人づくりにあります。官立の松山中学校には成績優秀な者しか入学できず、学の志あるおちこぼれが生じます。それをすくいとって、国家のお役に立てる人材に育てるのが本学の建学の精神であります」

 どうしてもと言う井上に対し、好古は一言だけ言った。

 「こんな老いぼれで役に立つんなら、何でも奉公させてもらうよ。欧米では高官が退職後に社会貢献するのは当たり前になっておる。日本人は少し地位を持って辞めると恩給で遊んで暮らそうという輩が多いが、わしはそういうのは好かん」

 この時、好古65歳。校長在任は6年3カ月に及び、その間、一日も休むことはなかった。好古の校長就任で北予中の雰囲気は一変する。(将口泰浩)

秋山好古(中)
登校姿を見て時計の針を正す
2013.6.1 07:44

 大正13(1924)年4月に北予中学校長(現愛媛県立松山北高)に就任した秋山好古(よしふる)(1859~1930年)は毎日、同じ道順で同じ時刻に通勤する。「校長の通ふ沿道には、その登校せる姿を見て時間を知り、我家の狂ひ易き時計の針を正すと云はれるほど精確なものであった」と同校理事の井上要は書き残している。

 好古の校長就任後、徐々に生徒の身だしなみも整い、目に見えて遅刻や欠席が減り、授業料もきちんと納められるようになった。しかし、好古が生徒を叱ることは一度もなく、怒った顔を見せたこともなかった。ただ登校時30分間、校門前に立ち、あいさつをし、ニコニコと笑顔で校内や教室を見回り、時に落ちているゴミを拾い、生徒たちと経験や教訓を交えた世間話に興じた。

「誠に親むべき好々爺(こうこうや)であった」という。校長室はせまく、夏暑く冬寒い部屋だったが、「暑い、寒い」とこぼすことなく、洋服のボタンひとつ外したこともなかった。

全国の中学校や師範学校などに将校を派遣し、軍事教練を必修とする「陸軍現役将校学校配属令」が大正14年に出される。しかし、好古は「生徒は軍人ではない」として、最小限の訓練にするように指示する。学校職員が好古の軍服姿の肖像を生徒に売ろうとしたこともあった。

いつになく好古は大声で「俺は中学校の校長である。位階勲章など話す必要はない。こんなものを売って生徒にいらぬ金を使わせてはならぬ」と叱り飛ばしたこともあった。

 中学校は学びの場であるという信念の下、糖尿病で不自由な足を引きずり、寄付を集め、講堂を建設する。学習環境を整えることも教育者としての使命と考えていた。

 住まいは昔の生家で、家事は親類の者が手伝いに来るだけの質素簡潔な生活を続ける。「(日露戦争の)未曽有の大勝利は国難に殉じた戦死者のたまものである。戦死者の遺族に対しお気の毒と存じ、日露戦争後はつとめて独身生活をしている」。教育者となった晩年も、英霊とともに生きていた。(将口泰浩)

秋山好古(下)
4文字に詰まる郷里の感謝
2013.6.8 09:28

 「サネユキキトク」の電報が福島・白河に出張していた秋山好古(よしふる)(1859~1930年)に届く。北予中学校(現愛媛県立松山北高)の校長に就任する6年前の大正7(1918)年2月3日。好古は陛下の軍事顧問を務める軍事参議官だった。

 周囲が帰京を勧めるが、「すでに弟とは今生の別れのあいさつをしておる」とそっけなく、「イカヌヨロシクタノム」と返電させる。4日早朝には「サネユキセイキョ」の至急電が配達されても「官命を帯びての任務遂行中であり、肉親の死であろうと、私事で帰京はできぬ」と言い放ち、何事もなかったかのように公務を続ける。見かねた部下が陸軍省人事局長と掛け合い、任務交代の陸軍大臣命令が出される。渋々、帰京した好古は、7日の葬儀で葬儀委員長として、あいさつをした。

 「兄として、弟を誇れるものは何もありませんが、これだけはお伝えしておきたい。真之は一分一秒たりとも国を思わぬときはなかったと」。参列者のだれもが好古にも感じるものであった。

 「前途のため郷里から有能な人物が出るように国のため郷里のために尽くす」。好古最後の使命は教育だった。当分の間という約束だったが、人柄が生徒や教員に浸透するにつれ、人気も高まり入学希望者は3倍に増加、辞任は先送りされる。しかし、その間も糖尿病は悪化、どうにも体がいうことをきかず、昭和5年3月に辞職。同年11月、71年の生涯を閉じる。

 6年間一日も休まず登校し、生徒を見守る姿は街中に知れ渡り、時計よりも正確といわれた時間厳守の姿勢はルーズだった街の人
々の意識さえ変える。「無言の教訓、無為の感化は誠に大きいと言はねばならぬ」と北予中理事の井上要は書き残す。

 松山でも墓参したいという声に押され、有志の手で道後鶯谷墓地に分墓を建立する。碑には「永仰遺光(えいごういこう)」。永遠に尊敬し、その人徳の光を未来に伝えるという意味だ。最後の使命を全うした好古に対する郷里の感謝の思いが4文字に詰まっている。(将口泰浩)

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近現代史に興味深々

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CGSで近現代史の概説を配信し始めてから、

私自身も学びが多く、政治に対する見方もまた変わってきました。

以下の産経新聞のシリーズも楽しみに読んでいますが、

当時の躍動感が感じられ、

興味深々で読むことができます。

ものごとを理解するベースの知識が必要なんですね。

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日韓通貨スワップ協定

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最近の好き勝手ないい分を聞くと、

協力してあげる義理はかんじませんね。

外交交渉なしの延長は反対です。

日韓通貨スワップ協定、韓国の延長要請なし 出方見守る政府   

2013.6.9 01:35 [韓国] 産経

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 通貨危機などの緊急時に外貨を融通し合う「日韓通貨交換(スワップ)協定」の総枠130億ドル相当のうち30億ドル分について、協定延長交渉が行われずに失効する可能性があることが8日、分かった。日本政府は韓国側からの要請がない場合は延長しない方針。同協定をめぐっては昨年8月に李明博大統領(当時)が竹島(島根県隠岐の島町)に上陸した後、欧州通貨危機などに伴い700億ドルまで引き上げていた拡充策を10月に取りやめた経緯がある。

 朴槿恵新政権が国内の政府批判を警戒して協定延長の要請をためらっているとの見方もあり、日本政府は韓国側の出方を注意深く見守っている。

 同協定の30億ドル分については融通期限が今年7月3日に迫っているが、現時点で韓国側から延長協議の打診はない。韓国にとって協定は、国際金融市場で交換性に乏しいウォンによって国際通貨であるドルや円を調達できるため、韓国経済の安定化につながりこそすれ、デメリットはない。

 このため、朴政権は「重要な政治決定を行う体制ができていない」(政府筋)との見方のほか、急速に悪化した日韓関係の中で「日本への支援要請で“弱腰”との政府批判が高まることを懸念し、要請に二の足を踏んでいるのではないか」(外交筋)とみられている。

 ただ、今回30億ドル分が失効しても、1997年のアジア通貨危機を受けた東南アジア諸国と日中韓3国による通貨スワップの取り決め(チェンマイ・イニシアチブ)により、100億ドル分の融通枠は継続される。

 韓国側にとって死活的ではないだけに、延長要請に踏み切る可能性は高いとはいえないが、日本政府には協定延長交渉を両国関係の改善に向けた糸口にしたいとの期待もあり、朴政権の動きに注目している。

<通貨交換(スワップ)協定> 為替市場での投機的な動きや金融不安による国外への資金流出に備え、各国政府や中央銀行が市場の安定に必要な資金を融通し合う仕組み。交換できる総額にあらかじめ限度額を設定し、その範囲内で相手側の要請に応じて通貨を交換。日本や中国など外貨準備に余裕がある国が、要請した国の通貨と交換で米ドル資金を融通するのが一般的。

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