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神谷宗幣 (かみやソウヘイ)
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硫黄島研修視察 (平成24年10月28~29日)

視察・研修報告 |

今回は、日本青年会議所の事業で一般応募し、硫黄島を訪問してさせていただきました。

多くの応募があった中で、選抜して頂き、機会を頂けたことに感謝します。

今回の視察研修は二日に渡って行われ、1日目は三人の講師の先生方から硫黄島訪問にあたっての講義を受けました。

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最初は、八木秀次先生から

国家とは歴史的共同体であるというお話。

国を守るということは国家の連続性を守ることであり、アメリカなどはそれを守るために戦いなくなった方の慰霊をものすごく大切にする。

戦争の性格と戦没者慰霊は全く別の話であるのに、日本ではそれが十分になされていないことに問題があると指摘されていました。

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続いて作家でもご活躍の北康利先生からは、栗林中将や硫黄島の戦い、日本人の誇りについてものすごく思いのこもった講義を頂きました。

北先生の本は何冊か読ませていただいておりますが、
これほど情熱をもってお話をされる方というイメージは全くなかったので驚きを感じました。

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続くワークショップでは、国の防衛や将来ビジョンについて意見を出し合いました。
私は偶然、青山社中の朝比奈一郎氏と同じチームに。また、同じチームに将来学校の歴史の先生になりたい女子中学生がいて、
ものすごくしっかりした意見を言うので、「人間は年齢ではないな」と改めて感じるワークショップでした。

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そして最後は、栗林中将のお孫さんでもあられる新藤義孝代議士から硫黄島の様子や遺骨収集のお話、

栗林中将のご家族のエピソードをお聞きしました。

硫黄島出の遺骨収集はまだ45%ほどしか進んでおらず
滑走路のアスファルトの下にもまだまだたくさんの遺骨があるということを悲しんでおられました。

また、硫黄島を「平和を祈る島」にしていきたいと強く訴えていらっしゃいました。

 

 

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二日目は自衛隊の入間基地から、自衛隊の輸送機に乗って2時間半かけて硫黄島に渡りました。

硫黄島は東京から1250キロ南に位置し、サイパンと東京のちょうど中間にあり、緯度では台北と同じくらいの位置にあります。

南北八キロほどの小さな島で水源などはありません。

そんな島に67年前、22000人の日本兵がおり、110000のアメリカ兵と36日間戦ったのです。

大将は栗林中将。

アメリカで暮らした経験もあり、アメリカとの戦争に反対していた方でもありました。

詳しくは本や映画(硫黄島からの手紙
などを見てみてください。

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彼は、島の地形や戦力差を考え、水際作戦ではなく、島全体に18キロにも及ぶ地下道を掘り、その中で戦う一種の籠城戦を選びました。

水も食糧も弾薬もなくとも、自決することは許さないと厳命し、一日でも本土への上陸を遅らせるため、
少しでもアメリカ軍の戦意を削ぐために、当初米軍が5日と想定していた戦いを36日にも引き伸ばしました。

結果、22000人の日本軍はほぼ全滅。
一方のアメリカ軍は死傷者あわせて28500人で大東亜戦争最大の被害を受ける戦いとなりました。

その戦場となった硫黄島には、今でも半数以上の遺骨が残されており、回収が進められています。

私たちはその島に慰霊式に行かせて頂いたのです。
自衛隊の輸送機で島に着くと、機体の中でも少し硫黄の臭いがしました。

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慰霊式は厳粛に行われ、遺族の方々からの感謝の言葉が読み上げられました。

天山慰霊碑の上には空間があり、壕のなかでなくなった方々に、水と光がそそぐようになっています。

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アメリカの上陸作戦前は、硫黄島は硫黄の採掘会社などがあり1000人ほどの島民がおりました。

ちょうどこの写真の硫黄が丘あたりに町があったそうです。今は見る影もありません。

 

栗林中将のおられた壕にもいかせて頂きました。人間一人がやっと入れる入り口です。

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別の豪にもいれて頂きましたが、奥に入るとサウナのような暑さでした。

私の想像をはるかに超えていました。こんなところで水もなく戦うなんて、
まさに生き地獄です。

今回の視察で一番の衝撃でした。

ミイラ化した遺体がでてきたのも理解できました。

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すり鉢山の上には日米双方の慰霊碑があり、今でも多くの方が足を運んでおられる様子がわかりました。

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また、すり鉢山からは米軍が上陸してきた海岸が一望できます。

あんな狭いところに何万の軍がきたのですから、映画でも見ましたが、まさに海岸は埋めつくされたんだろうと思います。

海岸の近くのトーチカはボコボコに破壊されていました。戦闘の激しさを物語っています。

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そして七月にアメリカのアーリントンでみたこの銅像の写真がまさにここでとられたんです。

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アメリカではその戦いの苦労を国を挙げて讃えているのに、

日本では、この硫黄島の戦いも、先月訪れた鹿屋や知覧などの特攻もほとんど光があてられず、知る人ぞ知る状態でしかありません。

それどころか自国のメディアすら、靖国神社に参ることをネガティブに描きだしたり、国民が右傾化したといった論調で報じたりします。

自分の国や家族のために死んだ人に感謝をできない人や国はいずれ滅びていくでしょう。

私もこうした国の歴史や先人の労苦をしらなければ、もっと自分の利己的な欲求で生きていたと思いますし、
政治家になっても今のような活動はしなかったでしょう。

日本人のアイデンティティや国や先人への感謝、未来への責任、これがないと人間頑張れません。

誰が頑張れない日本人を増やしたのか?改めて考えました。

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今は毎年3月に日米合同で慰霊祭をひっそりとおこなっておられるようです。

 
新藤議員が硫黄島を祈りの島に、とおっしゃっていました。私もそれに賛同します。

是非戦争の悲惨さと国を守るために戦うことの尊さ、
また、我々後進のために戦って下さった方々への感謝を感じれる島として、皆でこの島を残していきたいです。

 

戦争にいくことを思えば、私の政治活動のしんどさなんてチリみたいなものです。
政治活動にもハードルはありますが、なんのためにやっているのかを絶えず忘れないようにして、

弱い自分を戒めていきたいと、気持ちを引き締めた硫黄島訪問でした。

 

先人の思いを感じ取って国民一人一人ががんばっていきたいですね。

今ここにこうしていられるのは自分一人だけの力ではないんですから。

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