今日は、日本青年会議所の事業で硫黄島を訪問してきました。
多くの応募があった中で、選抜して頂き、機会を頂けたことに感謝します。
今回の視察研修は二日に渡って行われ、昨日は三人の講師の先生方から硫黄島訪問にあたっての講義を受けました。
硫黄島は南北八キロほどの小さな島で水源などはありません。
そんな島に67年前に22000人の日本兵がおり、110000のアメリカ兵と戦ったのです。
大将は栗林中将。
アメリカで暮らした経験もあり、アメリカとの戦争に反対していた方でもありました。
彼は、島の地形や戦力差を考え、水際作戦ではなく、島全体に18キロにも及ぶ地下道を掘り、その中で戦う一種の籠城戦を選びました。
水も食糧も弾薬もなくとも、自決することは許さないと厳命し、一日でも本土への上陸を遅らせるため、少しでもアメリカ軍の戦意を削ぐために、当初米軍が5日と想定していた戦いを36日にも引き伸ばしました。
結果、22000人の日本軍はほぼ全滅。一方のアメリカ軍は死傷者あわせて28500人で大東亜戦争最大の被害を受ける戦いとなりました。
その戦場となった硫黄島には、今でも半数以上の遺骨が残されており、回収が進められています。
私たちはその島に慰霊式に行かせて頂いたのです。
自衛隊の輸送機で島に着くと、期待の中でも少し硫黄の臭いがしました。
慰霊式は厳粛に行われ、遺族の方々からの感謝の言葉が読み上げられました。
天山慰霊碑の上には空間があり、壕のなかでなくなった方々に、水と光がそそぐようになっています。
栗林中将のおられた壕の写真です。
我々は別の豪にいれて頂きましたが、奥に入るとサウナのような暑さです。
こんなところで水もなく戦うなんて、まさに生き地獄です。
ミイラ化した遺体がでてきたのも理解できました。
すり鉢山の上には日米双方の慰霊碑があり、今でも多くの方が足を運んでおられる様子がわかりました。
また、すり鉢山からは米軍が上陸してきた海岸が一望できます。
あんな狭いところに何万の軍がきたのですから、映画でも見ましたが、まさに海岸は埋めつくされたんだろうと思います。
七月にアメリカのアーリントンでみたあの銅像の写真がまさにここでとられたんです。
アメリカではその戦いの苦労を国を挙げて讃えているのに、
日本では、この硫黄島の戦いも、先月訪れた鹿屋や知覧などの特攻もほとんど光があてられず、知る人ぞ知る状態でしかありません。
それどころか自国のメディアすら、靖国神社に参ることをネガティブに描きだしたり、国民が右傾化したといった論調で報じたりします。
自分の国や家族のために死んだ人に感謝をできない人や国はいずれ滅びていくでしょう。
私もこうした国の歴史や先人の労苦をしらなければ、もっと自分の利己的な欲求で生きていたと思いますし、政治家になっても今のような活動はしなかったでしょう。
日本人のアイデンティティや国や先人への感謝、未来への責任、これがないと人間頑張れません。
誰が頑張れない日本人を増やしたのか?改めて考えました。
昨日、新藤議員が硫黄島を祈りの島に、とおっしゃっていました。私もそれに賛同します。
是非戦争の悲惨さとの大切さ、
また、我々後進のために戦って下さった方々への感謝を感じれる島として、皆で残していきたいです。
戦争にいくことを思えば、私のしんどさなんてチリみたいなものです。
いろいろハードルはありますが、なんのためにやっているのかを絶えず忘れないようにして、弱い自分を戒めていきたいと気持ちを引き締めた硫黄島訪問でした。
注:大阪に戻ったら、写真などをしっかりつけてまとめ直します。
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