3月11日の震災は、私にとっても決して他人事ではありませんでした。
選挙1ヶ月前。様々な判断を迫られていた時期。私の判断や計画を大きく狂わせた出来事でした。
震災直後は「自分の選挙をしていていいのか」と考えたこともありましたし、
「こんな時に被災地にいけなくて、何のための予備自衛官か」と思い、
選対会議で被災地に行ってもいいかと仲間に聞いたこともありました。
「龍馬プロジェクトという全国組織に所属していながら、こんな時に指をくわえてみているのか」
といったお叱りのメールもいくつも頂きました。
ただ、いろいろ考え、総合判断した結果、「今は自分たちの町で全力で選挙に向けての活動をすることが自分たちの役割だ」と思い定め、
義援金集めや物資の送付など、できることをやるにとどめていました。
「選挙が終わったら必ずいく」。そう思いを持ち続け約2ヶ月が経過し、
6月に龍馬プロジェクトのメンバーとみんなで視察兼ボランティアにいくつもりでいたのですが、急な話が飛び込んできて、
今回何の準備もなく被災地の南三陸町に行くことになりました。
そのきっかけは、ユナイテッドアースという団体の依頼で、
龍馬プロジェクトのメンバーのいる自治体から南三陸町に自転車を寄贈することにしていたのですが、
東京にいる際に、その自転車が現地に届くと行くことと、現地に詰めている方から現地の状況を直接聞いてしまったことでした。
やむにやまれぬ気持ちが湧き上がってきて、いくつかの予定をキャンセルし2日間宮城県に行ってきました。
東京から仙台に新幹線で向かい、仙台からバスで南三陸を目指したのですが、
仙台から高速道路にのった瞬間、思わぬ光景を目にしました。
それは、高速道路の西と東で全く町並みが違ったのです。
西側は何の変哲もない町並み。東側(海側)は写真の風景です。
仙台市内ですでに声を失いました。
まず、最初は南三陸町の隣の登米市にあるユナイテッドアースのベースキャンプに入り、今回の被災の様子をレクチャーしてもらいました。
その時に見た映像です。(上から二つ目が衝撃的)
http://www.wajju.jp/minamisanriku/tsunami.html
ユナイテッドアースが南三陸町でしている活動は、
1 避難所でのボランティア
物資の管理、 瓦礫の撤去、 避難所清掃
2 映像撮影
目的 市民の目線から被災地の復興状況を伝える。
3 産業復興
といった内容です。
その後車で、南三陸に入り志津川地区を一望できるところから町を一望。
右の写真を見ると家の高度が運命を分けた様子がよく分かります。
被災者の様子を聞くと、家が流された方より、ぎりぎり家が助かった方のほうが心のダメージが大きいそうです。
私も写真では何度も見ましたが、現場で見ると全く違った思いが沸き起こります。
避難所の中学校にはダンボールで仕切られた家族スペースと何もないところにマットや布団が敷いてあるスペースがあり、
周囲には食料や薬品などが置かれ、娯楽のための本などもおいてありました。
中学校のグラウンドには仮設住宅が。ここのものは私が思っていたより綺麗で驚きました。
最大の避難所であったベイサイドアリーナ。すでに各避難所への分散移動が終わろうとしていました。
空いたスペースは、支援物資の集積基地に使うようになっていたのですが、その物資の多さには驚きました。
恐らく物資は十分に届いています!!
ここでは佐藤町長とお会いし、今後の課題などを聞かせていただきました。
アリーナの近隣には仮設市役所や、自衛隊のキャンプ、ユナイテッドアースのボランティアが野営するテントサイトがあり、
龍馬プロジェクトで送った自転車もしっかり置かれていました。
自転車輸送の様子です。http://wajju.typepad.jp/blog/2011/05/post-0a40.html
建物の上には船や車が打ち上げられ、車はぐちゃぐちゃに。船も海岸から数キロ内陸に流されていました。
佐藤町長がポールに上って何とか助かったものの、多くの職員の方が流された防災庁舎。
まったく機能しなかった防波堤。
津波の恐ろしさが伝わってきます。
漁協の市場の跡に行き、漁業関係者のお話もお聞きしました。
悩みの一つは、仕事がしたいが必要な機材などが揃わないこと。
漁船は生き残ったものがあるが、ガソリンを入れるタンクローリーがない。
あわびなどを取りたいが、酸素ボンベに酸素を入れるコンプレッサーがない、といった感じです。
また、復興を急ぐ若手の皆さんと、瓦礫など撤去が済んでから再開しようと言う年配の皆さんの間にも温度差があるように感じました。
三つ目の避難所では、長期ボランティアをしておられる方のお話をお聞きできました。
いくつかの意見を紹介すると、
①物資は沢山あるが、みんな遠慮してもらわなかったりする。食事を見てもらえば分かるがかなり充実したものが食べられる。
②必要なものが刻々と変わっていく。昨日まで欲しかったものも今日大量に送られると帰って困る。
③ボランティアをコーディネートするボランティア(長期滞在できる人)が圧倒的に不足している。
④メディアから正しい情報が流れていない。信頼できるのは自治体のHPとNHKの報道。民放などは脚色がある。
⑤みんな阪神大震災と比較しすぎる。二次災害が火災と津波で大きく違うし、都市と地方都市という違いもある。現場を見て欲しい。
といったものでした。
二日目は、ユナイテッドアースの方と別れ、民間復興支援青年隊の方の案内で、
歌津地区の馬場中山集落に行ってきました。ここは道路が寸断されしばらく孤立集落になっていたことで
NHKでも特集された地域です。
道路の復旧が遅れたので、村の皆さんで山の中に写真のような道をつくり、病人などを運んだとの事。
今後のことも考えて、集落独自でこの仮設道路をちゃんとした道にして、復興のさきがけとしようという話し合いが
進められていました。
漁業の集落を今後どのように復興させるのか!それともこれを機会に集落のあり方を変えるのか。
集落から離れたくない年配の皆さんの声が大きく、どうしても若手は声が上げにくい。
しかし、未来を作っていかないといけないのは若い世代。今まで考えてこなかった未来像。
道路の建設をきっかけに、集落の方向性を考えていこうという青年と出会い、私も多くのことを考えさせられました。
お昼は山形JCや新潟からこられたボランティアの皆さんから炊き出しを頂きました。
偶然かも知れませんが、被災地で頂いた食事はどこも充実していました。
昼からは、海岸にあった海産物の加工工場跡を見せていただきました。
写真をもって立っている方の後ろには、防波堤と工場があったそうです。
今は陸ごと削られて海になっています。
足元にはお地蔵さんが多数転がっていました。
家だけでなく、職場も奪われてしまった方々の生の声をお聞きしました。
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私見ですが、被災地に食料などの支援物資は届いています。
必要なのは、仕事をするための機材です。工具や車などが必要との声を多く聞きました。
仮設住宅は、被災地近郊には十分に足りていません。やはり皆さんもともとの生活圏に住みたいわけですが、用地確保が難しいようです。
電気はきていますが、水道や下水が復帰せず困っていらっしゃいました。
ライフラインと住宅といった生活支援と、
経済活動ができる産業支援が急務です。
海の恵みのある地域ですから、漁業などの仕事の場を作っていくことが急がれると感じました。
また、自衛隊の存在は大きいようです。皆さん感謝していらっしゃいました。
さらに、米軍の支援は短期的には自衛隊を上回ったとのこと「やっぱり米軍はすごい」と皆さん声をそろえておっしゃってました。
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視察後、夕方から仙台市内に入り、宮城県議を含む龍馬プロジェクトのメンバーと懇談しました。
仙台市内での被災の様子や、県の取り組みなどもお聞きしました。
被災者に関しては、早く働く場所を作っていかないと、心が弱くなる、と心配しておられましたし。
東北全体で経済がどん底まで冷え込んでいたところに今回の震災。
原発の風評被害も広がっている。企業が潰れていくとますます経済が悪くなる。
今はとにかく、東北の物産を買ってもらったり、冷やかしでもいいから東北を訪れ、お金を使って欲しい。
といった声を聞きました。
早ければ6月。または、夏にも学生や龍馬プロジェクトの仲間と共に再び被災地を訪れたいと思います。
もし、このブログを読んで、何か協力できるという方がいらっしゃれば、私まで連絡をください。
行政や赤十字では対応が後手後手のような気がします。
現地の方と顔の見える形でつないでいきます。
困った時はお互い様。私も家が潰れた時には、多くの方の力を借りました。
みんなで助け合いましょう!!